試行=確率空間なら、試行が独立とは何か、「試行をした後に違う試行をする試行」はどんな確率空間か

例えばサイコロを振ってnが出た後、n面サイコロをまたふるという試行は、後者の試行が前者の試行の結果によって決まるというものである。

試行Tの根源事象eによってS(e)という試行が定まっているわけで、そういうことならSは「試行の族」なのではと思った。

以後、試行を確率空間の同義語とする

試行Tによる試行の族Sとは、Tの根源事象eから試行S(e)を割り当てる写像とする。(ところで集合がコドメイン写像って扱いむずそう…)

試行S(T)を「SによるTの合成試行」と名付ける(ここは僕のオリジナル)。
ただし、S(T)の根源事象(の集合)は \coprod e∈T S(e)
S(T)の確率は根源事象(e,f)(ただしf∈S(e))ごとにPr_S(T)*1=Pr_T(e)*Pr_S(e)(f)と定義する。

試行の族Sがeに依らず一定の試行Sを値にとった場合S(T)はS×Tに一致すると思います。
その場合S×Tの確率は根源事象(f,e)に対してPr_T(e)*Pr_S(f)となるので試行SとTは独立といえるのではないでしょうか。
つまり、2つの試行S、Tが独立でない、というのは、Sは本当は試行ではなくTによる試行の族Sで、Tの根源事象eによって試行S(e)が変わるということと同じなのではと。

今回の議論的には試行S、Tが独立じゃないとき、片方のSはそもそも試行Sじゃなくて試行の族Sなので、やっぱり二つの試行が独立という言い回しは変だなあと思います。
確率論ってすごいユビキタスな話なので語用法が混乱していたりするのは仕方ないのかもしれません。

合成試行S(T)も他の名前で発見されてると思うので探してみます。
読了ありがとうございます。

*1:e,f

「コード=一般化された音符」説

僕は今まで、コードって嘘じゃないか、実はまやかしなんじゃないか(さほどの重要性はないのではないか?)?というようなスタンスでさえいたのだが、考えを改めるべきなのかもしれない。

数学には超関数と呼ばれる概念がある。(特殊なものだけの話だけど)関数には対応する超関数がそれぞれ別に存在するうえ、すべての超関数は関数を組み合わせて表せるから、超関数は関数の一般化だと数学者は考えている。みたいな。超関数=一般化された関数

超関数と似ている話は数学にはたくさんあって、前層とかべき集合とか、まあ自分はそんなに知らないんだけど… 数学的対象Xの一般化の方法として、XからX自身と他のものを組み合わせて作った数学的対象YをXの一般化だと思う。といったことはよくするのだと思う。いや当たり前だろう。 自分はこういったプロセスを「Xを膨らませてYを作ってる」みたいなイメージでイメージしてる。数学的には意味ないけど。

別に数学で考えたところでなんの意味もないのだが、ただコードは特別扱いしてやるべきなのかもしれない、と思った。

わからん

数理論理学の本はわかりづらい。そもそも一般の数学書の形式(定義.XXX命題.YYYみたいな形式)にのっとってないものの方が多い気がする。つまり、どちらかというと一般の読み物っぽくて、本で使う語用法も一切整理せず、煙に巻いてわざとわからせないようにしてるんじゃないかと疑ってしまうような数理論理学の本が多いと思う。

数理論理学といったら数学の論理を扱う学問じゃないか。それなのにterminology(語用法)を蔑ろにしてしまったら、次々と導入なしに新しい言葉がわんさか出てくるわ出てくるわで、著者はそんな本誰が理解できると思っているのか。

俺は哲学者が嫌いだ

哲学者が嫌いだ。哲学者の(本の中での)変な口調が嫌いだ(いや、よくよく考えたら嫌いではないまあまあ面白いと思う)。いらん哲学をありがたがっている様子が胸糞悪くて嫌いだ。 あと哲学という用語が嫌いだ。哲学は学問の出がらしだ。残りカスだ。哲学という用語の漠然さがもおおおおヤバイ。いい哲学は哲学じゃなくなった哲学だけだ。

実はそんなに嫌いじゃないかもしれない。ただ哲学者を見るとムカムカする。例えば夏目漱石のこころに出てきたK、何故大学生にもなって哲学のいらんさがわからんのじゃと思う。 そもそも哲学者は何がキモチよくて哲学やってるのかわからない。

哲学のいらんさがわからん奴に数理論理学が侵略されてると思うと腹が立つ。いややはり腹は立ってないかもしれない。 だがしかし数理論理学は哲学チックな匂いがあるとはいえ、哲学ではない(?)のだ。むしろコンピュータサイエンス系っぽい学問だ。

例えば、数学の基礎付け。

基礎付けというのは、正直説明が難しいが(いやそんなことないかもしれない)、数学でやる議論を厳密に行うために、推論の根拠(基礎)を余すことなく、前もって宣言(付け)しておく、といったことだ(と思う)。 ホラッ将棋があるだろう。将棋が。例えば将棋では対局を厳密に行うために、将棋のルールを守らないといけない。将棋のルールを破って歩兵を敵陣にぶっ飛ばしたりだとか駒を合体させたりだとかしたら、ただたんにルール違反となる。ゲームを厳密にやるためにルールを定めておくのは、数学を厳密にやるための基礎付けと同じノリのものなのだ。

説明するのはめんどくさい。やめよう…ただ、そうした数学の基礎付けをやるCoqなどのソフトウェアがあることを知ってほしかったというノリだ。

数学基礎論講義がわからんかった。勉強させてもらってる時分、愛憎入り乱れた気分である。

近況

今日って1月4日ですか!?冬休み現在進行形でだらけてモウテマスワ…こんなんじゃ東大とかハーバード大とか行けへんわなあぁ(無理)…ハァ…

僕はここ3年間、年末年始は勉強せず音楽をやるっていうのがジンクスになっている気がします。とは言え、前年は音楽理論を片っ端に調べまくっただけで作曲のノウハウとか全くやっとらんかったけど。

今年1年は私が何をしたかといいますとねぇ、1月に音楽理論、2月から数理論理学、10月くらいから圏論の本腰を入れて、圏論をやるために位相をやって(本当は位相のために圏論なんだろうけど)、次に圏論をやるために物理(微分幾何学)やって、微分幾何学に嫌気がさして、ここ1週間ぐらい作曲をやっとるって感じですね。 字面を見ると僕ってやっぱりADHDなのかなあ…!?って感じしますねえ。うう…俺が得たものって何だろう?まあでも?ホモトピーの定義を知った時とホモトピー型理論を知ったときは頭が確かに気持ちよかったですね。ドーパミンが出てました。まあでも、良い大学にいかんと独学した知識役に立たんのだろうけどw

nLabという数学版のWikipediaみたいなサイトがあるんですが、今年は10月からはそこに入り浸ってましたね。Lawvere(数学者)とかカッコよすぎかよ!みたいな。でもたぶんUrs SchreiberとかTom LeinsterとかShulmanとかJacob LurieとかnCafeとかいろんな面々にお世話になった、読んだだけだけど。

そうだよ!良い大学に入るとか!論文出して新しいアイデアを開発するとか!しないと偉くないんだよ多分。俺はいちユーザーに過ぎないのだよ。 大学受験的な面で考えれば、え?俺サボりすぎかよ…って感じです。大学受験とか正直ダルいよな。受験なんてなければいいのに。(いや、あってもいいんだけどね!?別に)

音楽理論を調べることは、日本で出版された音楽心理学の本と、Krumhansl氏周辺の理論、あとシェーンベルクの作曲の基礎技法を読んで満足した気がします。自分のある程度の疑問を消化できただけで作曲に何ら踏み込んでないけどね…作曲の基礎技法は旋律線のゲシュタルト的認知に言及してる名著だよ(多分)、とはいえ僕、楽譜読めないから語りしか読んでないけどね…。 ここらへんで、作曲を「積み木を積むようなもの」だと思ってたのを改めることができました。いい経験。(やったかなあ?時間使いすぎた気がががが)

数理論理学は…苦い思いがあります。僕は数学を基礎付ける方法について勉強、つまりは導出木の方法とかシーケント計算とかCoqがあるとか知った後に、(憧れの!)ゲーデル不完全性定理をやろう!として意気込んで本を借りて読んだりしたのです。でもわからんくて…何だろうなSelf-containedじゃなかったからわからなかったのかな。何かいきなり定義もなしにチューリングマシンとかを使いだしたり、訳のわからん集合論の構成いきなりやるし(いやまあ訳はわかったけどね)、アカン本やったのかもしれません。そんなわけで、ゲーデル不完全性定理の証明がどんなものか今もわかってません。いや、証明というより形式的体系を用いて証明すれば計算なんやけどね。自分が読んだ本では証明をどういう基礎付けでやってるのかがわからなかった、日本語で書いてる証明やった。いつかCoqで書かれた証明とか見てみたいなあ。

圏論は楽しかった。図式とストリング図を描くのが面白いんですよねえ!たぶん。あと圏論をやると100パーセント、代数系一般および特にモノイドのことが好きになると思う。当たり前だけど。(自分はsimplicial setがTHE 道具!!って感じがして面白い) 数学のwikipediaを見ててちょくちょく思うが、事実がわかりづらく散乱的に書かれてがちだと思います。「数学者が誰にも気を遣わず自分で思考を整理しながら作業してる感じ」みたいな印象です。しゃあないのかもしれんけど…俺も人に説明するとき数学のWikipedia状態になりがちかもしれません…ていうか今がそう。

作曲は、famisynthののこぎり波でメロディを書く→いかんせん曲をどう厚み付けすればいいのかわからん→放置みたいなのを5回ぐらいやってからわからんくてその後ぼんやり過ごしました、いや、過ごしています。今も。

昨日今日、YouTubeでStrayBoomという人のchiptune動画が目に留まったのですが、SID Wizardというソフトウェアを使って曲を制作しているらしく、インストールしました。battle of the bitsというサイトの存在も知りました。

なんか過去の出来事じゃないからか書きづらくなってきたナァ。ああああ冬休み勉強サボってたあ…どうしよう…これ打ち込むのに1時間半も使ってるよー…

最近の所見

SoundQuestは参考文献をもっとわかりやすく示してほしい

参考文献がカーソルをホバーしないと見れないのは不便、ていうか参考文献が初学者の命綱なのになあ。参考文献がわからないと研究者がどのようにして記事中の知見に辿り着いたのかがわからなくなるし(アカン)シェーンベルクの作曲の基礎技法とかSweet Anticipationとか読んでるならそれらの内容も紹介してほしいとも思う。

僕は正直コード進行に懐疑的である。

コード進行っていうほど音楽で重要な要素か?和音で伴奏するというのはひとつの様式に過ぎないのではないか?(これを和声懐疑主義命名してみたい)

壊れたコード(アルペジオ)はコードか?

僕は正直、アルペジオに機能性を見出せない。あえて言おう。アルペジオは単なるメロディじゃないのか?

日本の音楽理論界隈は音楽心理学会(もうちょっというとピッチクラスセット理論とかの数理的なものも含めた分野)の知見をもっと取り込むべき

#2 作曲音楽理論独学備忘録 '21/1/11 by 反抗KID

正に実りある一週間でした。正に面白い知見を知れました!

まずは自分が読んだ(もしくは完璧に読んだわけじゃないが、ただ単に見た)参考文献たち

  • 音楽現象から考察する名曲の仕組み(その3)
  • Vol.17 No.1 (2002/01) 音楽と人工知能
  • 計算の視点から音楽の構造を眺めてみると
  • Leonard B. Meyer の音楽論
  • L・B・マイヤーにおける音楽の反復聴取の問題
  • 音楽的意味の生成と音楽における感情の機能(1)L.B.マイヤーとP.キヴィによる音楽的感情の解釈をめぐって
  • 音楽知覚心理学の動向 旋律・ピッチ知覚を中心として
  • 音は心の中で音楽になる: 音楽心理学への招待
  • 音楽と認知
  • 音楽・数学・言語: 情報科学が拓く音楽の地平

次に自分の道筋

  • かねてから「変奏」や「反復」などといった技巧についてのインターネット上での言及が少なすぎると思い、グーグルで検索
  • 音楽現象から考察する名曲の仕組み(その3)を発見して「4. 音楽認知と音楽」が面白かった
  • あとは芋づる式で調べていきました。(小並感)

最近の所感

自分は情報弱者だと心底感じております…何故そう感じるのかというのかというというと、世に蔓延る作曲家方たちがどうその人の作る音楽様式を学んだのか僕には見当が全くつかんからです。

例え話をしましょう、ある作曲者Kがいたとしましょう、Kはチップチューンの達人で、何としかもKは中学二年生だというのです。何とうらやましいことでしょう…そうなると僕の関心はKがどこでどうやってチップチューンを学んだのかという点になります。

例え話のような状況は最近よく起こります。Kのような人は何人もいるし、そのたびごとに僕はその人の生まれてから今に至るまでの人生、どうやってその技巧を身に着けたのかというのを聞きたくなります(これは音楽だけでなくその他の学問だったりとかでもいえます、後実際に人に聞いたことはないです、これはインターネット(主にTwitter)をROMで漂っていて思った感想です…)。

Kは本当にたくさんいるので、自分も早くKになりたい!Kに追いつきたい!と最近強く思うのです…!

うううううう
ああああ
がんばらなくては

(あめぞう氏の最後の言葉より)

#1 作曲音楽理論独学備忘録 '21/1/4 by 反抗KID

初ブログにつき自己紹介

自分は現在音楽理論と作曲について勉強しているものです。(ハンドルネームは「反抗KID」で、ここはひとつお願いします。)

自分の今までの経緯について

  • だいぶ前(2020年の初めぐらい)にSoundQuestさんや楽典.comさんを見て音楽理論の勉強を始めるも、だんだんきつくなって挫折
  • 2020年12月初旬ぐらいから、(平均律と数学の剰余類について知っていたので)音名、音程は整数(半音の数)で表したり、時計を使ったりするのが合理的でわかりやすいのではと思い付き、勉強を再開、ネットで自分と同じ考えを持つ人がいないか探す
    • 日本語のサイトで5人も自分と似た考えを持つ人を見つける(大発見(全然そんなことはない)をしたつもりだったから少しへこんでから安心した)
    • 英語版Wikipediaを探索して、自分の考えがピッチクラスセット理論と呼ばれる分野で提唱済みだったことに気づく
    • David Lewin氏の理論とネオリーマン理論を知る
  • 和声、対位法などを調査(しきれてない)
  • 現在引き続き具体的な作曲技法を勉強(というか模索)中

自分の所感

  • 和声や対位法といわれているものはすべての音楽に共通する普遍的な理論であるということはなく、「西洋人が歴史の中たどり着いた一種の音楽のスタイルや技法」なんだという意識が芽生えた(ホントは当たり前(なのでしょうか?)なんだろうけどわかってなかった(反省点))
  • 音階と旋法は意味が混同されすぎてないですか?自分は少なくとも何が何だかわかってなかった(反省点)
    • 自分の中では(これもちょっと大体な定義だと思いますが…)音階が「音高の集合」で旋法が「音階に加えてその中から中心音がどれになるか定めたもの」だと思ってます。
  • やめろ五線譜やめろ度数やめろ全音階やめろ(暴論)
  • 自分はシェーンベルクのいう「積み木を積むような音楽」が基本だと素朴に思ってました(自分はバカだった(半ギレ)、これも反省点)

自分が頼ったリンク

https://soundquest.jp/ https://楽典.com/gakuten/index.html

http://joewakano.sakura.ne.jp/MusicTheory/music_theory.html http://mahoraga.com/masaakiwada/Theory/theory3.html https://www.math.kindai.ac.jp/laboratory/chinen/chp_grp_f/chopintogrp.html https://kazmus.hatenablog.jp/entry/2016/11/05/114410 https://speakerdeck.com/canaan1008/romanteitukushu-xue-naito

後書き

一応、音楽理論を学ぶ同輩に読んでもらいたくてブログしたのですが、自分の見解は合ってるのでしょうか? 一番読んでほしいのは「自分の所感」です。音律を教えず五線譜や度数から教えるなどの全音階を前提とした教えは学徒の視野を狭める悪習だと思いました。 広大な音楽の大地を見渡せるような考え、こそ一番知るべきことだと思うのです。たぶん…(やっぱり書いた後なんでもよくないかと思いはじめました)